大人の方へ (2)


「個人植樹の先にあるもの・大人の方へ(1)」に少し付け足して書いてみる

僕が今から話すことは「まだあなたの周りのみんながやっていないこと」なので、余計なプレッシャーがかかるはずないので心配はしていませんが、もしあなた自身が
「やりたくなければやらなくてもいいんだからね」
「個人植樹」ってのは誰かのためにやるものではないんだからね。

これを誰かに言われたからとか、ミンナがやるからとか、やらされたからとか、やりたくないとか、やる意味がわからないというのなら、絶対にやらないでほしい。
そんな気持ちで自分の樹を植えないでほしいんだ。

 僕が良いと思うことでも、君にとってどうなのかは知らないからね。
この話をキッカケにやりたい人ではない人にやらせることになると、その人の心に小さなストレスが生まれる可能性があるし、「やってみたけど..つまんなくて疲れて損しただけ」って言い回られては俺も嫌だし、あなたの周囲の人間や後輩や子供たちも後に続きたくなくなるし、樹木だって生きていて気持ちがあるならきっとイヤだろうし、「やらされた奴」は、誰かにそれを繰り返す可能性もあるし、“やらされてる”というそのストレスは知らず知らずのうちに“機嫌”や“愚痴”として現れて周りにマイナスに影響してくるはずだからね。

 何でもやる意味を理解した上で、更にそれを「やりたい」って思わなければ楽しくないんだからね。(「植樹は企業がまとめてやってくれているからそれでいい」と思う人ならその企業の支援を君は進んでしているのかい?それならいいのだが。) 僕の言っているのは誰かがどこかでまとめてやってくれていれば良いという話しではないんだ。

 国や企業がまとめて植樹することに金を通して強制的に参加させられているとかじゃ…「同じ」でも“違う”。

大人じゃなくてもこんなことは分かってるけど、大人は「自分勝手も選択できる」から自分で気づかなくちゃいけない。…いけないわけではないがそのままでは本人も周りの人もだんだんと少しずつキツイ雰囲気になる原因だ。
(もちろんどうしようもないこともあるが、「食わず嫌いで悪く言うのは控えるほうがいい」)

僕の言っているのは、どうせやるなら、どうせやらされるのであれば、、やるしかないのなら、、そこに理解を深めて、やるって決めて、楽しめるものは、楽しく楽しむことで、人の心は本当の意味で大きく成長していくことができるというもの。

成長した人間は「良いと思うこと」を自発的にできるようになるもの。

「やらされてる」ってのが「やってもらってる」ってなってくる。

そのためには、自分も長期の計画を持って今より少し遠くを見てみたり、今より少し広い範囲で物事を考えてみたりできるようになれば、そこにある目先の選択にしても正しい選択というか、未来・将来につながる良い選択ができる。それが良い選択だと分かれば、君のやる気の種子になる。
 「あそこにたどり着けるには、今何をすればいいか?」ってことだよね。

そして、それをやることによって、やったとしたら「どんなことに広がっていく可能性があるのか?」も人間だから想像がふくらむ。

説明はこれくらいにして、
「一人一本“自分の木”を植える」ということ。
この簡単で難しい「個人植樹」が広まっていく先に想像しているものを、
あなたにとって見ず知らずの他人である私の頭の中に浮かんだものをなんとなく一言でズラズラ書いてみるが、スっと理解できるものと、「ん?」と思うものがあるだろう。特に学校では教わらないことばかりが答えになってるからね。


それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それは僕たち人類が個の人生を楽しむ為に必要な酸素のため。

それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それは生まれ育った故郷の他に、もう一つ心の故郷として、地球上の土地に愛着心を増やすため。

それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それは時期と場所によって同じ学年ではなく、同じ心の世代が繋がり、新たに集える場所や繋がりを作れるため。


それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それは“自分の植えた木”がひ孫世代以降のお家に梁や柱となって使ってもらえることで、家族を守れる強さになったり、記憶よりもカタチに残ったりする。この世から去る寂しさ緩和のため。

それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。心を込めて植えたそれが…すぐに枯れたとしても、それを現実に受け止めて、リアルに何かあった時でも心の強さに変えたりする新しい考え方を知ることの心の訓練にもなる。

それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それはこの飽き飽きした都会のショッピングだけの時代に、お金がなくても新しいデートコースとしてその自分の樹がある山を選ぶ選択肢も増える。

それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それは A I に単純労働を取って代わられる時代にも、絶対に譲れない「心が必要な新しい人の仕事」としての市場ができる。

それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それは経済成長からの負の遺産的に手入れが止まってしまっている杉だらけの山の割合を自然なバランスに戻すことで、(少しの協力金を小花粉杉の資金にして)花粉症を減らし、本来飲まなくてもいいはずの薬は減らす。

それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それは動物が好きな人なら解るだろう木の実は野生動物の餌の為にもなり、里山整備の関心にも繋がるだろう。

それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。その興味は知識、そして経験、経験は関心、経験と関心は定年後の「地域で感動を与える活動」に積極的に参加する意欲を受け取れる。街角の落ち葉掃除も、子供たちの世話と同じだろう。

それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それは…環境教育の話のきっかけになったり、見た目が杉だらけの山の改善を進めて、色とりどりの美しい山の対面に駐車場公園施設などを作り、春は桜、秋は紅葉などのバランスの良い四季を楽しめる日本の観光資源の一つにもなったりする。

それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それは、そのバランス良く植えられた色々な木々が栄える山を見て、国も色々な人が居て成り立っているということを実感してもらいたい。皆んな同じ杉ばかりでは、ある意味統一されてて綺麗だが…実にツマラナイものだ。

それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。あなたがオカルト的に「私には守護霊がいる」と目に見えないものまで信じれるのなら、現実的に守護樹があってもいいと思う。(信じない人にとっては“守護”でなくても何でもいいのだが..「自分の好きな木」だね、例えば俺は夏の青々とした太陽に透かされたモミジが好きだ。木を選ぶにあたってはそんなことでもいい。)

…言い出せばきりがない程に未来に向けて「一人一本“自分の木”を植える」その意味と価値をどんどん説明できる。

それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それは植え始めることで、まだまだこれからもたくさんの意味が“そこ”にもたらされることになるだろう。



 何故なら年間を通して行われるイベントや、毎年恒例の年中行事というのは俺たち人類の歴史から見ると、歴史などは浅いものばかり。
 誰かがつい何百年前にやり始めたことなだけ。
それを代々伝えられてきているのだが、
今にはそれも
「ミンナがやっているから」
「親がやっていたから・くれたから」
「本当の意味はよくわからないけど一応..」
などでは、こうなってしまう。

それに飽きてきたり、意味も納得できなかったり、やる意味もわからなければ、やらされてる感が残り、面倒臭いこととも感じてきたり、それが元でどんどん疎かになり、廃れたり、やらなくなるのは自然といえば自然なこと。

「ミンナに判断を任せっぱなしで、流れに身を任せるのはとってもラクだが、個人的な心が込められていない」

そんな彼らの口から出る言葉に読み仮名をふると、
だからしない
だからできない
だからしなくていい
そして…「だからそれは自分のせいじゃない」と。


なあ? 
それはそれでもいいが、僕らの世代で無くした分、小さくした分、ラクになった分、ツマラナクなった分、簡略化した分、渇いていく心の為に何か「意味のある良いこと」を子供達の未来のためにも新しく考えてスタートしてあげてみてもいいとおもうんだ。
 カタチだけになり、一つ一つの行動や作業、言動に込める心をどんどん無くした分、これからの明るい未来に対して新たに心を繋げられるような「誰でも楽しめる意味のあるもの」を新しく作ればいい。

もちろん今までのものは、しっかりと引き継ぎながらね。


 これからの僕らには「これが必要だ」と思う人が“必要な動き”を考えて、その考えに沿った心で行動すれば、押し付けなくてもきっと大きな流れになるはず。


 ですからこの先、もし「ミンナがやるようになった」その時こそ「一人一本“自分の木”を植える」というこれだけは周りの人が個人のタイミングを無視して押し付けることのないよう、「絶対にやりたい人だけ」がやるということにしようと思う。

そして(障がい者さんのように)やりたくてもやれない人には「個人植樹といえど必ず手を貸してあげること。」但しこれもしっかりと手を貸してあげたい人の心のみだ。

そもそも大人の僕らにとって「樹を植える」なんてのは“買ってきて植えればいいだけ”のとても簡単なことなんだ。
..なのにやらないだろ?その理由は自分だけのものなんだ。
「ミンナがやってないから?」「土地が?」「金が?」「暇が?」「得が?」「興味が?」…「やる意味が..」「やる価値あんの?」「なんで自分ばっか..」
「それにどうせやるなら..そうじゃなければ自分は..」…

そうだな、言葉の前に声にとても気持ちが滲み出ている。
じゃあ今度一度だけでもいいから「街角に落ちてる誰かの捨てたゴミを拾ってみてくれ」きっとその時君の頭の中に色んなことが思い浮かぶはずだから、自分っていう人間性を楽しんでみてくれよな、人間が鍛えるのは身体だけじゃないんだぜ。

身体が弱くても“心が強い人間”がいる。

そこに「自分にとって難しい選択の方を選べる心の強さ」だったり、「苦手な方を選択できる心の強さ」だったり、「自分の理想になるべく妥協しない心の強さ」は、普段から鍛えておくことで..「大事な場面で逃げない強さ」に繋がる。
「正確には逃げなくても良いだけの人間たちに囲まれて立ち向かえる」ようになるということ。ここまで書けばわかるかい?
..丁寧に教えすぎたかな。

君の個人植樹を手伝えない分、伝えたいのは、
「個人植樹」を通して、君の人生でこの先「やったほうがいい理由」と「やらなくてもいい理由」がそこにあった時、、「あの頃ちゃんとこっちを選んだことがある」って自分の記憶に今の君が自信が思い出せるようになればいいなって。
彼女や子供達に「すごい!おとうさん!かっこいい!」ってなってほしい。
(もちろん無茶な決断はしないでくださいね)

それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それは善き人間の自由な習慣のために。



本人達がやらされたものや、やる意味の分からないものには心を込められず…そのままではこの先どこかで廃れていくもの。

君達が押し付けられることを嫌う時代に、僕は今回、「考えだけ」を広告していくことにする。



君にとって誰の言葉だろうと、「良いと思うこと」は心に取り入れた者が勝ち、そして実行・実現していけば “その勝ちとったものを分けられる強さ”に変わる。


「しない・できない・やらない」方向にぐちゃぐちゃ言い訳探さずにに、「やってみる方向に頭を使い、やってみていけばいい」 そしたら歳と共にたるんでくだけのその君の顔つきも、なぜかキリッとしてくるものだ。


さてと、
僕は「一本の自分の樹を植える」ことに対し
意味も分からず、意味も伝えず、子供を一緒に連れて行って“先ずは自分がやって見せる”などという行為などもしないつもりだ。 
たとえ自分の子供でもね。
 単なる植樹にしては変な厳しさになるのかもしれないが、それは「人間を育てる」という目的があるからだ。僕は植樹を通して、その教え方次第では何か他にも大切なものを教えてあげられる気がするんだ。


「なぜ木を植えるのか」を子供に説明して、、ただただ話すだけ。
子供が「僕も植えに行きたい!」って気持ちになってから。そこから更に自分でお年玉を貯めさせて、植えにいくそれまでに、木々の種類や働きも教えて、自分で“その木”を選べるようになったのなら、自分で育てさせ、僕はその場所に連れていくだけ。手配したその土地にあくまでも連れて行くだけ。
 その時、もし自分で穴すら掘れなければ、その日は連れて帰り、また一年後にチャレンジさせてあげるだけさ。
たとえ上手に植えられなくて、そこで枯れてしまってもね。

もちろん結果は子供次第であり、それは僕の教え方次第だろう。



個人の心の中にあるものを信じて。
まだまだこれを人間が自然にできるようになるまでには千年かかるのかもしれないが、植物の種に水をやるように、個人の心に言葉で種を蒔く。

あとは本人がその考えを実行できる実力と心の強さがあるかないかだ!



ただ意味を理解し、やれる人だけで楽しんでやれば良い。別に僕とは違う考え方で植樹してもらってももちろん構わない。自由だからね。
 だから僕は たとえ国や企業が似たようなことをやってくれていたとしても、僕は僕で僕の樹を最低限一本は地球上に植えてから自然に還るつもりだ。



これからは色々と大変だった労働的仕事が良い意味で少なくなるが、最後は人の手でやるべき仕事で締め括らなければいけない「金の動き」がある。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それはその国の…国債にとって…


さてと。

簡単に書いてありますが、一般的な人の生活の中で「植樹」について考えてもらうのはこんな感じです。



⇒ もう少し説明がほしい方