Cプラン「FC店〜自分の木の行末」
2020年に始められるのなら
この時代に合わせた数字や心を上手に合わせて無理なく繋げて進めていく。
今ある会社や団体にイメージを当てはめても、ニーズがどれくらいになるのかはこれからの広め方にもよるので、仮に、ある都市部に住む方から200件ほどの親子からの依頼があったとして、その都市部からアクセスの良い地方に私以外の者が対応する準備をしておくことを想定してみます。
★もう一つの道として。( その他プランCー1 )
◎会社(団体)立ち上げなら
イメージとしては、「とにかく儲けは無い副業的FC事業(のカタチ)」として!
☆この事業に加盟参加協力費○○○万円と、かかった経費も含めて黒字になるまではロイヤリティも0円で!
ネット上で予約と同時に任意の参加費をもらう。
(寄付金なら、参加費はもちろん無しでも○)
*FC本部の役割は
メインHPの管理、広告、
伐倒から整地など、フランチャイジーさんができないこと以外の全てとする。
(きっと今までのFCの常識とは大きく違うイメージです、たとえば「お客様は全然神様ではありません」)
初めに各地で加盟していただくのは、衰退業種・跡継ぎのいない・仕事の数が減っていく会社さんで、仕事量が右肩下がりの時間の隙間を埋めてフェードアウトを緩やかにする程度のお仕事となります。
ですが、新しい案やその地区・地域の需要が増えればもちろん…です。
★フランチャイズ加盟店様に(たとえば山を持つ方)
❶広告で活動の目的(主旨)を説明。
❷とにかく「植樹プランを理解した人だけ」が自発的に来るためそこまでの説明は要らない→来た人の知識を確認して、誓約書記入後、ただ案内(寄付金が貰えればもらう) シルバー人材さん。
❸各地の個人石材店等(衰退業種)に教育。( 0 円でFCの立ち上げ)
❹持っている(植えても良い)山の土地へ案内
❺植樹指導(たとえばその地域の石材店と庭屋ワンペアで。プラス障がい者さん)
・種苗の販売
・枯れていないか
・成長の記録をメールで送るサービス
・石板(名前)
・タイムカプセルサービス
・草取り(3年間)
・など、他
・Q&A
〜〜〜⑥必要な管理(長い年月)
❼切り出しと加工(その地域の林業と材木屋のワンペアで)
・床柱や梁の加工
・切り出した後の代わりの植樹は自然山林に。
❽ひ孫以降の代の床柱等、住宅に使用(建築メーカー)
・彫刻などで楽しく明るく
・情報のチップを埋める
・
❾建て替え時は再利用(解体屋)
・先祖代々に使用できるものとして
➓血族が途絶えたら。(火事焼失も)
・御祓や供養として。林野に代わりの植樹も。
・墓仕舞い的に永代管理でも。
・柱などは最後の人の火葬時にご一緒に。
・それらの加工木材を集めて公共の施設を作ることで、自分の木が暫くはこの世に利用されることになるため、血族が途絶える寂しさの緩和にも繋がる。
簡単に書いてありますが、ひとつの案として
「自分の木」の行末はこんな流れです。
大人の方へ(1)
「1人一本の樹を植える」だなんていうのは、皆さんもどこかで聞いたことがあると思います。僕はこの一言だけで「やろう!」と思ったことはありません。
ですが僕はやりました。植えました。
カタチを伝えることってのは一言で簡単ですが、中身を伝えるってことは少し長くなりますし、心を伝えるってのは難しさも出てきます。
「一言で全てを分かる人」から「全てを話して一言が分かる人」まで理解力はそれぞれですから、前者の方からするとウルサイ内容かもしれませんが、できるかぎり丁寧に書いてあるつもりなので我慢してください。
(スイッチが入った時点で読むのをやめていただいて構いません)
ここでは僕の頭にある「個人植樹の先にあるもの」を少し書いてみます
ここでも言っておきます、あなた自心の自由を尊重します。
「やりたくなければ、やらなくてもいいんだからね」
「個人植樹」ってのは誰かのためにやるものではないんだからね。
これを誰かに言われたからとか、ミンナがやるからとか、やらされたからとか、やりたくないとか、やる意味がわからないというのなら、絶対にやらないでほしい。
なぜなら大人に押し付けるつもりがないからだ。
僕が良いと思うことでも、君にとってどうなのかは知らないからね。
この話をキッカケにやりたい人ではない人にやらせることになると、その人の心に小さなストレスが生まれる可能性があるし、「やってみたけど..つまんなくて疲れて損しただけ」って言い回られては俺も嫌だし、あなたの周囲の人間や後輩や子供たちも後に続きたくなくなるし、樹木だって生きていて気持ちがあるならきっとイヤだろうし、「やらされた奴」は、誰かにそれを繰り返す可能性もあるし、“やらされてる”というそのストレスは知らず知らずのうちに“機嫌”や“愚痴”として現れて周りにマイナスに影響してくるはずだからね。
何でもやる意味を理解した上で、更にそれを「やりたい」って思わなければ楽しくないんだからね。(「植樹は企業がまとめてやってくれているからそれでいい」と思う人ならその企業の支援を君は進んでしているのかい?それならいいのだが。) 僕の言っているのは誰かがどこかでまとめてやってくれていれば良いという話しではないんだ。
国や企業がまとめて植樹することに金を通して強制的に参加させられているとかじゃ…「同じ」でも“違う”。
僕の言っているのは、どうせやるなら、どうせやらされるのであれば、、やるしかないのなら、、そこに理解を深めて、やるって決めて、楽しめるものは、楽しく楽しむことで、人の心は本当の意味で大きく成長していくことができるというもの。
心が成長した人間は「良いと思うこと」を自発的にできるようになるもの。
そのためには、長期の計画を持って今より少し遠くを見てみたり、今より少し広い範囲で物事を考えてみたりできるようになれば、そこにある目先の選択にしても正しい選択というか、(地球の)未来・(自分の)将来につながる良い選択ができる。それが良い選択だと分かれば、君のやる気の種子になる。
「あそこにたどり着ける為には、今なにをすればいいか?」ってことだよね。
そして、それをやることによって、やったとしたら「どんなことに広がっていく可能性があるのか?」も人間だから想像がふくらむ。
説明はこれくらいにして、
「一人一本“自分の木”を植える」ということ。
この簡単で難しい「個人植樹」が広まっていく先に想像しているものを、
あなたにとって見ず知らずの他人である私の頭の中に浮かんだものをなんとなく一言でズラズラ書いてみるが、スっと理解できるものと、「ん?」と思うものがあるだろう。特に学校では教わらないことばかりが答えになってるからね。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それは僕たち人類が個の人生を楽しむ為に必要な酸素や水のため。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それは生まれ育った故郷の他に、もう一つ心の故郷として、地球上の土地に愛着心を増やすため。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それは時期と場所によって同じ学年ではなく、同じ心の世代が繋がり、新たに集える場所や繋がりを作れるため。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それは“自分の植えた木”がひ孫世代以降のお家に梁や柱となって使ってもらえることで、家族を守れる強さになったり、記憶よりもカタチに残ったりする。自分自身もこの世から去る寂しさ緩和のため。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。心を込めて植えたそれが…すぐに枯れたとしても、それを現実に受け止めて、リアルに何かあった時でも心の強さに変えたりする新しい考え方を知ることの心の訓練にもなる。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それはこの飽き飽きした都会のショッピングだけの時代に、お金がなくても新しいデートコースとしてその自分の樹がある山を選ぶ選択肢も増える。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それは A I に単純労働を取って代わられる時代にも、絶対に譲れない「心が必要な新しい人の仕事」としての市場ができる。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それは経済成長からの負の遺産的に手入れが止まってしまっている杉だらけの山の割合を自然なバランスに戻すことで、(少しの協力金を小花粉杉の資金にして)花粉症を減らし、本来飲まなくてもいいはずの薬は減らす。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それは動物が好きな人なら解るだろう木の実は野生動物の餌の為にもなり、里山整備の関心にも繋がるだろう。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。その興味は知識、そして経験、経験は関心、経験と関心は定年後の「地域で感動を与える活動」に積極的に参加する意欲を受け取れる。街角の落ち葉掃除も、子供たちの世話と同じだとも思えるようになるだろう。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それは…環境教育の話のきっかけになったり、見た目が杉だらけの山の改善を進めて、色とりどりの美しい山の対面に駐車場公園施設などを作り、春は桜、秋は紅葉などのバランスの良い四季を楽しめる日本の観光資源の一つにもなったりする。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それは、そのバランス良く植えられた色々な木々が栄える山を見て、国も色々な人が居て成り立っているということを実感してもらいたい。皆んな同じ杉ばかりでは、ある意味統一されてて綺麗だが…実にツマラナイものだ。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。あなたがオカルト的に「私には守護霊がいる」と目に見えないものまで信じれるのなら、現実的に守護樹があってもいいと思う。(信じない人にとっては“守護”でなくても何でもいいのだが..「自分の好きな木」だね、例えば俺は夏の青々とした太陽に透かされたモミジが好きだ。木を選ぶにあたってはそんなことでもいい。)
…言い出せばきりがない程に未来に向けて「一人一本“自分の木”を植える」その意味と価値をどんどん説明できる。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それは植え始めることで、まだまだこれからもたくさんの意味が“そこ”にもたらされることになるだろう。
何故なら年間を通して行われるイベントや、毎年恒例の年中行事というのは俺たち人類の歴史から見ると、歴史などは浅いものばかり。
誰かがつい何百年前にやり始めたことなだけ。
それを代々伝えられてきているのだが、
今にはそれも、、
「ミンナがやっているから」とか
「親がやっていたから・くれたから」とか
「本当の意味はよくわからないけど一応..」…
などでは、こうなってしまう。
表面的なカタチだけ続けていても、
それに飽きてきたり、意味も納得できなかったり、やる意味もわからなければ、やらされてる感が残り、面倒臭いこととも感じてきたり、それが元でどんどん疎かになり、廃れたり、やらなくなるのは自然といえば自然なこと。
それでは心を込めていくどころか、どんどん心を無くしていくだけ。
なあ?
それはそれでもいいが、僕らの世代で無くした分、小さくした分、ラクになった分、ツマラナクなった分、簡略化した分、渇いていく心の為に何か「意味のある良いこと」を子供達の未来のためにも新しく考えてスタートしてあげてみてもいいとおもうんだ。
カタチだけになり、一つ一つの行動や作業、言動に込める心をどんどん無くした分、これからの明るい未来に対して新たに心を繋げられるような「誰でも楽しめる意味のあるもの」を新しく作ればいい。
もちろん今までのものは、しっかりと引き継ぎながらね。
これからの僕らには「これが必要だ」と思う人が“必要な動き”を考えて、その考えに沿った心で行動すれば、押し付けなくても、1人、また1人と増えていき、きっと大きな流れになるはず。
そして(障がい者さんのように)やりたくてもやれない人には「個人植樹といえど必ず手を貸してあげること。」但しこれもしっかりと手を貸してあげたい人の心のみだ。
「ミンナに判断を任せっぱなしで、流れに身を任せる」のはとってもラクだが..
「自分だけじゃヤダ」とか
「みんながやっていないと..やれない」とか
「自分のゴミしか拾えない」とか
「ミンナが渡る赤信号を..断れない」とかでは情けない。
「自分にとって難しい選択の方を選べる心の強さ」だったり、「苦手な方を選択できる心の強さ」だったり、「自分の理想になるべく妥協しない心の強さ」は、普段の小さなことから鍛えておくことで..「大事な場面で逃げない強さ」に繋がる。
(正確には「逃げなくても良いだけの人間たちに囲まれて立ち向かえる」ようになるということ。ここまで書けばわかるかい?)
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それは善き人間の自由な習慣のために。
本人達がやらされたものや、やる意味の分からないものに人は心を込められず…そのままではこの先どこかで廃れていくもの。
押し付けられることを嫌う時代に、僕は今回、「この考えだけ」を広告していくことにする。
誰の言葉だろうと、「良いと思うこと」は自分の心に取り入れた者が勝ち、そして実行・実現していけば “勝ち分けられる強さ”に変わる。
このやり方で、この2020年からは進めていく。
個人の心の中にあるものを信じて。
まだまだこれを人間が自然にサラッとできるようになるまでには千年かかるのかもしれないが、植物の種に水をやるように、個人の心に言葉で種を蒔く。
あとは本人がその考えを実行できる実力と心の強さがあるかないかだ!
君のタイミングで芽を出せば良い。
ただ意味を理解し、やれる人だけで楽しんでやれば良い。
別に僕とは違う考え方で植樹してもらってももちろん構わない。自由だからね。
あなたが木を1本植えようが、植えまいが、
あなたが街角のゴミを一個拾おうが拾わまいが、
あなたが大合唱の最中に1人口パクしようが、しまいが、
地球や皆んなにとっては多分そんなに大したことではない。
「どうせやるならさぁ…」とか
それは君も僕も分かってる。
では何故こんな話しをするのかって?
君のためにではなく、君のすぐ隣にいる人は僕の友達だからだ。
そしていつか、その友達が君と俺を友達にしてくれるはずだからね。
その時のために、個人の人間性を鍛えておいてほしい。
誰も見てないところでゴミを拾ったことのある人は、多分ゴミを捨てないだろうと勝手に僕が思っているだけのちっちゃな話さ。
もちろんそれだけではないのだがね。
だから僕は たとえ国や企業が似たようなことをやってくれていたとしても、僕は僕で僕の分の樹を最低限一本は地球上に植えてから自然に還るつもりだ。
これからは色々と大変だった労働的仕事が良い意味で少なくなるが、最後は人の手でやるべき仕事で締め括らなければいけない「金の動き」がある。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それはその国の…国債にとって…
さてと。
簡単に書いてありますが、一般的な人の生活の中で「植樹」について考えてもらうのはこんな感じです。
⇒ 自分の樹を植えるということ(2)
大人の方へ (2)
「個人植樹の先にあるもの・大人の方へ(1)」に少し付け足して書いてみる
僕が今から話すことは「まだあなたの周りのみんながやっていないこと」なので、余計なプレッシャーがかかるはずないので心配はしていませんが、もしあなた自身が
「やりたくなければやらなくてもいいんだからね」
「個人植樹」ってのは誰かのためにやるものではないんだからね。
これを誰かに言われたからとか、ミンナがやるからとか、やらされたからとか、やりたくないとか、やる意味がわからないというのなら、絶対にやらないでほしい。
そんな気持ちで自分の樹を植えないでほしいんだ。
僕が良いと思うことでも、君にとってどうなのかは知らないからね。
この話をキッカケにやりたい人ではない人にやらせることになると、その人の心に小さなストレスが生まれる可能性があるし、「やってみたけど..つまんなくて疲れて損しただけ」って言い回られては俺も嫌だし、あなたの周囲の人間や後輩や子供たちも後に続きたくなくなるし、樹木だって生きていて気持ちがあるならきっとイヤだろうし、「やらされた奴」は、誰かにそれを繰り返す可能性もあるし、“やらされてる”というそのストレスは知らず知らずのうちに“機嫌”や“愚痴”として現れて周りにマイナスに影響してくるはずだからね。
何でもやる意味を理解した上で、更にそれを「やりたい」って思わなければ楽しくないんだからね。(「植樹は企業がまとめてやってくれているからそれでいい」と思う人ならその企業の支援を君は進んでしているのかい?それならいいのだが。) 僕の言っているのは誰かがどこかでまとめてやってくれていれば良いという話しではないんだ。
国や企業がまとめて植樹することに金を通して強制的に参加させられているとかじゃ…「同じ」でも“違う”。
大人じゃなくてもこんなことは分かってるけど、大人は「自分勝手も選択できる」から自分で気づかなくちゃいけない。…いけないわけではないがそのままでは本人も周りの人もだんだんと少しずつキツイ雰囲気になる原因だ。
(もちろんどうしようもないこともあるが、「食わず嫌いで悪く言うのは控えるほうがいい」)
僕の言っているのは、どうせやるなら、どうせやらされるのであれば、、やるしかないのなら、、そこに理解を深めて、やるって決めて、楽しめるものは、楽しく楽しむことで、人の心は本当の意味で大きく成長していくことができるというもの。
成長した人間は「良いと思うこと」を自発的にできるようになるもの。
「やらされてる」ってのが「やってもらってる」ってなってくる。
そのためには、自分も長期の計画を持って今より少し遠くを見てみたり、今より少し広い範囲で物事を考えてみたりできるようになれば、そこにある目先の選択にしても正しい選択というか、未来・将来につながる良い選択ができる。それが良い選択だと分かれば、君のやる気の種子になる。
「あそこにたどり着けるには、今何をすればいいか?」ってことだよね。
そして、それをやることによって、やったとしたら「どんなことに広がっていく可能性があるのか?」も人間だから想像がふくらむ。
説明はこれくらいにして、
「一人一本“自分の木”を植える」ということ。
この簡単で難しい「個人植樹」が広まっていく先に想像しているものを、
あなたにとって見ず知らずの他人である私の頭の中に浮かんだものをなんとなく一言でズラズラ書いてみるが、スっと理解できるものと、「ん?」と思うものがあるだろう。特に学校では教わらないことばかりが答えになってるからね。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それは僕たち人類が個の人生を楽しむ為に必要な酸素のため。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それは生まれ育った故郷の他に、もう一つ心の故郷として、地球上の土地に愛着心を増やすため。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それは時期と場所によって同じ学年ではなく、同じ心の世代が繋がり、新たに集える場所や繋がりを作れるため。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それは“自分の植えた木”がひ孫世代以降のお家に梁や柱となって使ってもらえることで、家族を守れる強さになったり、記憶よりもカタチに残ったりする。この世から去る寂しさ緩和のため。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。心を込めて植えたそれが…すぐに枯れたとしても、それを現実に受け止めて、リアルに何かあった時でも心の強さに変えたりする新しい考え方を知ることの心の訓練にもなる。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それはこの飽き飽きした都会のショッピングだけの時代に、お金がなくても新しいデートコースとしてその自分の樹がある山を選ぶ選択肢も増える。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それは A I に単純労働を取って代わられる時代にも、絶対に譲れない「心が必要な新しい人の仕事」としての市場ができる。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それは経済成長からの負の遺産的に手入れが止まってしまっている杉だらけの山の割合を自然なバランスに戻すことで、(少しの協力金を小花粉杉の資金にして)花粉症を減らし、本来飲まなくてもいいはずの薬は減らす。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それは動物が好きな人なら解るだろう木の実は野生動物の餌の為にもなり、里山整備の関心にも繋がるだろう。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。その興味は知識、そして経験、経験は関心、経験と関心は定年後の「地域で感動を与える活動」に積極的に参加する意欲を受け取れる。街角の落ち葉掃除も、子供たちの世話と同じだろう。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それは…環境教育の話のきっかけになったり、見た目が杉だらけの山の改善を進めて、色とりどりの美しい山の対面に駐車場公園施設などを作り、春は桜、秋は紅葉などのバランスの良い四季を楽しめる日本の観光資源の一つにもなったりする。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それは、そのバランス良く植えられた色々な木々が栄える山を見て、国も色々な人が居て成り立っているということを実感してもらいたい。皆んな同じ杉ばかりでは、ある意味統一されてて綺麗だが…実にツマラナイものだ。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。あなたがオカルト的に「私には守護霊がいる」と目に見えないものまで信じれるのなら、現実的に守護樹があってもいいと思う。(信じない人にとっては“守護”でなくても何でもいいのだが..「自分の好きな木」だね、例えば俺は夏の青々とした太陽に透かされたモミジが好きだ。木を選ぶにあたってはそんなことでもいい。)
…言い出せばきりがない程に未来に向けて「一人一本“自分の木”を植える」その意味と価値をどんどん説明できる。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それは植え始めることで、まだまだこれからもたくさんの意味が“そこ”にもたらされることになるだろう。
何故なら年間を通して行われるイベントや、毎年恒例の年中行事というのは俺たち人類の歴史から見ると、歴史などは浅いものばかり。
誰かがつい何百年前にやり始めたことなだけ。
それを代々伝えられてきているのだが、
今にはそれも
「ミンナがやっているから」
「親がやっていたから・くれたから」
「本当の意味はよくわからないけど一応..」
などでは、こうなってしまう。
それに飽きてきたり、意味も納得できなかったり、やる意味もわからなければ、やらされてる感が残り、面倒臭いこととも感じてきたり、それが元でどんどん疎かになり、廃れたり、やらなくなるのは自然といえば自然なこと。
「ミンナに判断を任せっぱなしで、流れに身を任せるのはとってもラクだが、個人的な心が込められていない」
そんな彼らの口から出る言葉に読み仮名をふると、
だからしない
だからできない
だからしなくていい
そして…「だからそれは自分のせいじゃない」と。
なあ?
それはそれでもいいが、僕らの世代で無くした分、小さくした分、ラクになった分、ツマラナクなった分、簡略化した分、渇いていく心の為に何か「意味のある良いこと」を子供達の未来のためにも新しく考えてスタートしてあげてみてもいいとおもうんだ。
カタチだけになり、一つ一つの行動や作業、言動に込める心をどんどん無くした分、これからの明るい未来に対して新たに心を繋げられるような「誰でも楽しめる意味のあるもの」を新しく作ればいい。
もちろん今までのものは、しっかりと引き継ぎながらね。
これからの僕らには「これが必要だ」と思う人が“必要な動き”を考えて、その考えに沿った心で行動すれば、押し付けなくてもきっと大きな流れになるはず。
ですからこの先、もし「ミンナがやるようになった」その時こそ「一人一本“自分の木”を植える」というこれだけは周りの人が個人のタイミングを無視して押し付けることのないよう、「絶対にやりたい人だけ」がやるということにしようと思う。
そして(障がい者さんのように)やりたくてもやれない人には「個人植樹といえど必ず手を貸してあげること。」但しこれもしっかりと手を貸してあげたい人の心のみだ。
そもそも大人の僕らにとって「樹を植える」なんてのは“買ってきて植えればいいだけ”のとても簡単なことなんだ。
..なのにやらないだろ?その理由は自分だけのものなんだ。
「ミンナがやってないから?」「土地が?」「金が?」「暇が?」「得が?」「興味が?」…「やる意味が..」「やる価値あんの?」「なんで自分ばっか..」
「それにどうせやるなら..そうじゃなければ自分は..」…
そうだな、言葉の前に声にとても気持ちが滲み出ている。
じゃあ今度一度だけでもいいから「街角に落ちてる誰かの捨てたゴミを拾ってみてくれ」きっとその時君の頭の中に色んなことが思い浮かぶはずだから、自分っていう人間性を楽しんでみてくれよな、人間が鍛えるのは身体だけじゃないんだぜ。
身体が弱くても“心が強い人間”がいる。
そこに「自分にとって難しい選択の方を選べる心の強さ」だったり、「苦手な方を選択できる心の強さ」だったり、「自分の理想になるべく妥協しない心の強さ」は、普段から鍛えておくことで..「大事な場面で逃げない強さ」に繋がる。
「正確には逃げなくても良いだけの人間たちに囲まれて立ち向かえる」ようになるということ。ここまで書けばわかるかい?
..丁寧に教えすぎたかな。
君の個人植樹を手伝えない分、伝えたいのは、
「個人植樹」を通して、君の人生でこの先「やったほうがいい理由」と「やらなくてもいい理由」がそこにあった時、、「あの頃ちゃんとこっちを選んだことがある」って自分の記憶に今の君が自信が思い出せるようになればいいなって。
彼女や子供達に「すごい!おとうさん!かっこいい!」ってなってほしい。
(もちろん無茶な決断はしないでくださいね)
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それは善き人間の自由な習慣のために。
本人達がやらされたものや、やる意味の分からないものには心を込められず…そのままではこの先どこかで廃れていくもの。
君達が押し付けられることを嫌う時代に、僕は今回、「考えだけ」を広告していくことにする。
君にとって誰の言葉だろうと、「良いと思うこと」は心に取り入れた者が勝ち、そして実行・実現していけば “その勝ちとったものを分けられる強さ”に変わる。
「しない・できない・やらない」方向にぐちゃぐちゃ言い訳探さずにに、「やってみる方向に頭を使い、やってみていけばいい」 そしたら歳と共にたるんでくだけのその君の顔つきも、なぜかキリッとしてくるものだ。
さてと、
僕は「一本の自分の樹を植える」ことに対し
意味も分からず、意味も伝えず、子供を一緒に連れて行って“先ずは自分がやって見せる”などという行為などもしないつもりだ。
たとえ自分の子供でもね。
単なる植樹にしては変な厳しさになるのかもしれないが、それは「人間を育てる」という目的があるからだ。僕は植樹を通して、その教え方次第では何か他にも大切なものを教えてあげられる気がするんだ。
「なぜ木を植えるのか」を子供に説明して、、ただただ話すだけ。
子供が「僕も植えに行きたい!」って気持ちになってから。そこから更に自分でお年玉を貯めさせて、植えにいくそれまでに、木々の種類や働きも教えて、自分で“その木”を選べるようになったのなら、自分で育てさせ、僕はその場所に連れていくだけ。手配したその土地にあくまでも連れて行くだけ。
その時、もし自分で穴すら掘れなければ、その日は連れて帰り、また一年後にチャレンジさせてあげるだけさ。
たとえ上手に植えられなくて、そこで枯れてしまってもね。
もちろん結果は子供次第であり、それは僕の教え方次第だろう。
個人の心の中にあるものを信じて。
まだまだこれを人間が自然にできるようになるまでには千年かかるのかもしれないが、植物の種に水をやるように、個人の心に言葉で種を蒔く。
あとは本人がその考えを実行できる実力と心の強さがあるかないかだ!
ただ意味を理解し、やれる人だけで楽しんでやれば良い。別に僕とは違う考え方で植樹してもらってももちろん構わない。自由だからね。
だから僕は たとえ国や企業が似たようなことをやってくれていたとしても、僕は僕で僕の樹を最低限一本は地球上に植えてから自然に還るつもりだ。
これからは色々と大変だった労働的仕事が良い意味で少なくなるが、最後は人の手でやるべき仕事で締め括らなければいけない「金の動き」がある。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それはその国の…国債にとって…
さてと。
簡単に書いてありますが、一般的な人の生活の中で「植樹」について考えてもらうのはこんな感じです。
⇒ もう少し説明がほしい方
大人の方へ(3)
「個人植樹の先にあるもの・大人の方へ(2)」をスッキリさせて書いてみる
「自発的にやりたくなければ絶対にやらないでほしい。」
「個人植樹」ってのは誰かのためにやるものではないんだからね。
誰かに言われたからとか、ミンナがやるからとか、やらされたからとか、やりたくないとか、やる意味がわからないというのなら、絶対にやらないでほしい。
そんな気持ちで自分の樹を植えないでほしいんだ。
何でもやる意味を理解した上で、更にそれを「やりたい」って思わなければ楽しくないんだからね。(「企業がまとめてやってくれているからそれでいい」と思う人ならその企業の支援を君は進んでしているのかい?) 僕の言っているのは誰かがどこかでまとめてやってくれていれば良いという話しではないんだ。
国や企業がまとめて植樹することに金を通して強制的に参加させられているとかじゃ…「同じ」でも“違う”。
僕の言っているのは、どうせやるなら、どうせやらされるのであれば、、やるしかないのなら、、そこに理解を深めて、やるって決めて、楽しめるものは、楽しく楽しむことで、人の心は本当の意味で大きく成長していくことができるというもの。
成長した人間は「良いと思うこと」を自発的にできるようになるもの。
そのためには、長期の計画を持って今より少し遠くを見てみたり、今より少し広い範囲で物事を考えてみたりできるようになれば、そこにある目先の選択にしても正しい選択というか、未来・将来につながる良い選択ができる。それが良い選択だと分かれば、
それをやることによって、やったとしたら「どんなことに広がっていく可能性があるのか?」も人間だから想像がふくらむ。
説明はこれくらいにして、
「一人一本“自分の木”を植える」ということ。
この簡単で難しい「個人植樹」が広まっていく先に想像しているもの、
私の頭の中に浮かんだものをなんとなく一言でズラズラ書いてみる。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それは僕たち人類が個の人生を楽しむ為に必要な酸素のため。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それは生まれ育った故郷の他に、もう一つ心の故郷として、地球上の土地に愛着心を増やすため。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それは時期と場所によって同じ学年ではなく、同じ心の世代が繋がり、新たに集える場所や繋がりを作れるため。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それは“自分の植えた木”がひ孫世代以降のお家に梁や柱となって使ってもらえることで、家族を守れる強さになったり、記憶よりもカタチに残ったりする。この世から去る寂しさ緩和のため。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。心を込めて植えたそれが…すぐに枯れたとしても、それを現実に受け止めて、リアルに何かあった時でも心の強さに変えたりする新しい考え方を知ることの心の訓練にもなる。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それはこの飽き飽きした都会のショッピングだけの時代に、お金がなくても新しいデートコースとしてその自分の樹がある山を選ぶ選択肢も増える。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それは A I に単純労働を取って代わられる時代にも、絶対に譲れない「心が必要な新しい人の仕事」としての市場ができる。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それは経済成長からの負の遺産的に手入れが止まってしまっている杉だらけの山の割合を自然なバランスに戻すことで、(少しの協力金を小花粉杉の資金にして)花粉症を減らし、本来飲まなくてもいいはずの薬は減らす。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それは動物が好きな人なら解るだろう木の実は野生動物の餌の為にもなり、里山整備の関心にも繋がるだろう。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。その興味は知識、そして経験、経験は関心、経験と関心は定年後の「地域で感動を与える活動」に積極的に参加する意欲を受け取れる。街角の落ち葉掃除も、子供たちの世話と同じだろう。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それは…環境教育の話のきっかけになったり、見た目が杉だらけの山の改善を進めて、色とりどりの美しい山の対面に駐車場公園施設などを作り、春は桜、秋は紅葉などのバランスの良い四季を楽しめる日本の観光資源の一つにもなったりする。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それは、そのバランス良く植えられた色々な木々が栄える山を見て、国も色々な人が居て成り立っているということを実感してもらいたい。皆んな同じ杉ばかりでは、ある意味統一されてて綺麗だが…実にツマラナイものだ。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。あなたがオカルト的に「私には守護霊がいる」と目に見えないものまで信じれるのなら、現実的に守護樹があってもいいと思う。(信じない人にとっては“守護”でなくても何でもいいのだが..「自分の好きな木」だね、例えば俺は夏の青々とした太陽に透かされたモミジが好きだ。木を選ぶにあたってはそんなことでもいい。)
…言い出せばきりがない程に未来に向けて「一人一本“自分の木”を植える」その意味と価値をどんどん説明できる。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それは植え始めることで、まだまだこれからもたくさんの意味が“そこ”にもたらされることになるだろう。
何故なら年間を通して行われるイベントや、毎年恒例の年中行事というのは俺たち人類の歴史から見ると、歴史などは浅いものばかり。
誰かがつい何百年前にやり始めたことなだけ。
それを代々伝えられてきているのだが、
今にはそれも
「ミンナがやっているから」
「親がやっていたから・くれたから」
「本当の意味はよくわからないけど一応..」
などでは、こうなってしまう。
それに飽きてきたり、意味も納得できなかったり、やる意味もわからなければ、やらされてる感が残り、面倒臭いこととも感じてきたり、それが元でどんどん疎かになり、廃れたり、やらなくなるのは自然といえば自然なこと。
「ミンナという大きな流れに判断を任せっぱなしで、流れに身を任せるのはとっても楽だが、カタチをまねるだけでは個人的な心が込められていない」
そんな君らの口から出る言葉に読み仮名をふると、
だからしない
だからできない
だからしなくていい
そして…「だからそれは自分のせいじゃない」と。
これがいつしか癖になってきて、性格となって染み付き始めている。
あなたの周りにもこういう人が増えてきているはずだ。
そんなふうにして人は心を込めていくどころか、どんどん心を無くしていくだけ。
あなたにとって“心をこめる”ということが、ただ「その場の勝手な思い込み」や“グッと念じるだけ”でないことを僕は強く願います。
なあ?
まぁそれはそれでもいいのだが、僕らの世代で無くした分、小さくした分、ラクになった分、ツマラナクなった分、簡略化した分、渇いていく心の為に何か「意味のある良いこと」を子供達の未来のためにも新しく考えてスタートしてあげてみないかい?
「誰でも楽しめる意味のあるもの」を新しく作ればいい。
これからの僕らには「これが必要だ」と思う人が“必要な動き”を考えて、その考えに沿った心で行動すれば、押し付けなくてもきっと大きな流れになるはず。
ですからこの先、もし「ミンナがやるようになった」その時こそ「一人一本“自分の木”を植える」というこれだけは「絶対にやりたい人だけ」がやるということにしようと。そして(障がい者さんのように)やりたくてもやれない人には必ず手を貸してあげること。但しこれも手を貸してあげたい人のみだ。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それは善き人間の習慣のために。
本人達がやらされたものや、やる意味の分からないものには心を込められず…そのままではこの先どこかで廃れていくもの。
押し付けられることを嫌う時代に、僕は今回「考えだけ」を広告していくことにする。
これだけ書いてもやる意味が感じられなければやらなくても良い。
もっと面白いことを言おう、
こんな僕も未だ植樹をしたことがない。(これを書いた時点ではね)
あはは、そういう意味ではとても説得力がないだろう?
こんな説得力の無い人に偉そうに言われてムカつくかい?
確かに植樹をしていない俺の存在に説得力はない。
でもどうだろう、俺はここまで書けるし、君らは説得力のない僕のコレを読んでみて何とも思わないかい? 心に変化は無いかい?
ついでに言うと君らが言い訳に使う「それじゃあ説得力が無い」というのも、一度自らの心で考え直した方がいい。
誰の言葉だろうと、「良いと思うこと」は心に取り入れた者が勝ち、そして実行・実現していけば “勝ち分けられる強さ”に変わる。
「みんながやってるから」→みんながやらなくなったら君は?
「お金がもらえるから」→お金がもらえなくなったら君は?
「褒めてもらえるから」→褒められなくなったら君は?
「怒られるから」→怒られないなら君は?
「恐い人が言ったから」→その人が言わなくなれば君は?
「好きな人が好きなことだから」→その人を嫌いになったら君は?
「儲かるから」→儲からなくなったら君は?
「憧れの人がやってるから」→やらなくなったら君は?
「社長が見てるから」→見てなかったら君は?
「法律で決まってるから」→決まってないなら君は?
「罰があるから」→なければ君は?
…やれない。やらない。..やらなくなってしまうもの。
人はまだまだ動物的な部分が強くて大きい。
でも、きっかけはどうあれ、「本人が “それをやる意味”を理解していれば勝負になる。あとは人間の心の強さだ」
さてと、
僕は「一人一本の樹を植える」ことに対し
意味も分からず、意味も伝えず、子供を一緒に連れて行って“先ずは自分がやって見せる”などという行為などもしないつもりだ。
たとえ自分の子供でもね。
植樹に関しては変な厳しさになるのかもしれないが、それは「人間を育てる」という目的があるからだ。僕は植樹を通して、その教え方次第では何か他にも大切なものを教えてあげられる気がするんだ。
いいかい?
「なぜ木を植えるのか」を子供に説明して、、ただただ話すだけ。
子供が「僕も植えに行きたい!」って気持ちになってから。そこから更に自分でお年玉を貯めさせて、植えにいくそれまでに、木々の種類や働きも教えて、自分で“その木”を選べるようになったのなら、自分で育てさせ、僕はその場所に連れていくだけ。手配したその土地にあくまでも連れて行くだけ。
その時、もし自分で穴すら掘れなければ、その日は連れて帰り、また一年後にチャレンジさせてあげるだけさ。
たとえ上手に植えられなくて、そこで枯れてしまってもね。
もちろん結果は子供次第であり、それは僕の教え方次第だろう。
このやり方で、この2020年からは進めていく。
個人の心の中にあるものを信じて。
まだまだこれを人間が自然にできるようになるまでには千年かかるのかもしれないが、植物の種に水をやるように、個人の心に言葉で種を蒔く。
あとは本人がその考えを実行できる実力と心の強さがあるかないかだ!
やりたくない皆さん、どうだろうか?
このやり方すら新しくて、このやり方なら僕は僕の考えた行動を君に強引に押し付けることはないだろう? この言い方すら偉そうだし、ミンナにとって僕は説得力がないからね..あはは。
それで廃れていくなら、あなたの中で廃れていけばいいさ。
ただ意味を理解し、やれる人だけで楽しんでやれば良い。別に僕とは違う考え方で植樹してもらってももちろん構わない。自由だからね。
あなたが木を1本植えようが、植えまいが、
あなたが街角のゴミを一個拾おうが拾わまいが、
あなたが大合唱の最中に1人口パクしようが、しまいが、
地球や皆んなにとっては多分そんなに大したことではない。
「どうせやるならさぁ…」…
それは君も僕も分かってる。
では何故こんな話しをするのかって?
君のためにではなく、君のすぐ隣にいる人は僕の友達だからだ。
そしていつか、その友達が君と俺を友達にしてくれるはずだからね。
その時のために、個人の人間性を鍛えておいてほしい。
誰も見てないところでゴミを拾ったことのある人は、多分ゴミを捨てないだろうと勝手に僕が思っているだけのちっちゃな話さ。
人は君に街角のゴミを拾わせるのは実は簡単だという。
「お金をあげればいい」ってね。
だが、それは僕も分かってる。
そして、僕のやろうとしてることはとても難しいことなのかもしれない。
この難しさを説明すると
「餌を与えずに動物園の動物に芸を仕込む難しさ」だ、君にできるかい?
(もちろん食事は食事の時間に与えるだけだ)
イルカさんは人間と遊び始めた。
僕らヒトは既に遊びをする。
次に僕らはどんな進化を目指すべきなのか…勉強だけにしておくかい?
あなたはどう思う?
だから僕は たとえ国や企業が似たようなことをやってくれていたとしても、僕は僕で僕の樹を最低限一本は地球上に植えてから自然に還るつもりだ。
もしたとえ、一生食べていけるだけの金があったとしても、人のための仕事はするし、僕は僕の人生の責任も楽しみながら果たす。
これからは色々と大変だった労働的仕事が良い意味で少なくなるが、最後は人の手でやるべき仕事で締め括らなければいけない「金の動き」がある。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それはその国の…国債にとって…
さてと。
簡単に書いてありますが、一般的な人の生活の中で「植樹」について考えてもらうのはこんな感じです。
⇒ まだ説明が必要な方へ (4)
1人一本の木を植えるということ…それは
さてと、前置きが長くなったが、本題に入るぞ。
ここでは「みんながやらないんだったら僕はやらない」っていう人に対して、全力で説明をする。
なぜならその人が「皆んなに合わせる」としても「皆んなのせいにはしない人間」に育てるのが個人植樹の目的の1つにあるからだ。
もちろん君の言うとおり「皆に合わせること」は大切だ。
そんなこと当たり前に分かった上で話してる。
俺が言ってる“大人の皆んな”ってのは、「皆とやっても、皆に合わせてやっても、皆に言われて一緒にやったとしても..他人のせいにはしない個人が集まったもの」だ。特に失敗や迷惑をかけた責任に対してのね。
だがもうすでに「最初からミンナに判断を依存し過ぎている人」ってのは、、物事の結果に対する受け止め方や処理ってのが少し心配な部分があり、本人が一度だけでもそれに気づいておいたほうが良い。
大きなお世話かもしれないが、この人とこの人の周りが心配だからだ。
こういう人には「植樹」自体はどうでもいいが、「個人植樹の目的の説明」をキッチリときいてもらうだけでいいと思っている。
誰でも気づけるチャンスは平等に必要だ。
ただ、成人するまではミンナの判断の中にいるのは全然問題ないことだ。
「赤信号を皆で渡るしかなかった」としても、「ただみんなのせい」にして終わらせず、“そこに参加した自分”っていうのをしっかりと分析できるようになるためにも。
そしてその状況を次の世代に残さないように無理なく考えてもらうためにも。
あらためて、真剣に、
今までにまだ人間全員に根付いていないやり方の「新しい植樹」の話をする。
だが先に言っておく、僕が今から話すことは
「自発的にやりたくなければ絶対にやらないでほしい。」
「個人植樹」ってのは誰かのためにやるものではないんだからね。
誰かに言われたからとか、ミンナがやるからとか、やらされたからとか、やりたくないとか、やる意味がわからないというのなら、絶対にやらないでほしい。
そんな気持ちで自分の樹を植えないでほしいんだ。
僕が良いと思うことでも、君にとってどうなのかは知らないからね。
この話をキッカケにやりたい人ではない人にやらせることになると、その人の心に小さなストレスが生まれる可能性があるし、「やってみたけど..つまんなくて疲れて損しただけ」って言い回られては俺も嫌だし、あなたの周囲の人間や後輩や子供たちも後に続きたくなくなるし、樹木だって生きていて気持ちがあるならきっとイヤだろうし、お前のように「やらされた奴」は、誰かにそれを繰り返す可能性もあるし、“やらされてる”というそのストレスは知らず知らずのうちに“機嫌”や“愚痴”として現れて周りにマイナスに影響してくるはずだからね。
何でもやる意味を理解した上で、更にそれを「やりたい」って思わなければ楽しくないんだからね。(「企業がまとめてやってくれているからそれでいい」と思う人ならその企業の支援を君は進んでしているのかい?) 僕の言っているのは誰かがどこかでまとめてやってくれていれば良いという話しではないんだ。
国や企業がまとめて植樹することに金を通して強制的に参加させられているとかじゃ…「同じ」でも“違う”。
政治に参加するってのも「投票して終わり」であるはずがない。 僕の言っているのは、どうせやるなら、どうせやらされるのであれば、、やるしかないのなら、、そこに理解を深めて、やるって決めて、楽しめるものは、楽しく楽しむことで、人の心は本当の意味で大きく成長していくことができるというもの。
成長した人間は「良いと思うこと」を自発的にできるようになるもの。
そのためには、長期の計画を持って今より少し遠くを見てみたり、今より少し広い範囲で物事を考えてみたりできるようになれば、そこにある目先の選択にしても正しい選択というか、未来・将来につながる良い選択ができる。それが良い選択だと分かれば、君のやる気の種子になる。
「あそこにたどり着けるには、今なにをすればいいか?」だよね。
そして、それをやることによって、やったとしたら「どんなことに広がっていく可能性があるのか?」も人間だから想像がふくらむ。
説明はこれくらいにして、あなたにとって見ず知らずの他人である私の頭の中に浮かんだものをなんとなく一言でズラズラ書いてみるが、スっと理解できるものと、「ん?」と思うものがあるだろう。特に学校では教わらないことばかりが答えになってるからね。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それは僕たち人類が個の人生を楽しむ為に必要な酸素のため。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それは生まれ育った故郷の他に、もう一つ心の故郷として、地球上の土地に愛着心を増やすため。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それは時期と場所によって同じ学年ではなく、同じ心の世代が繋がり、新たに集える場所や繋がりを作れるため。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それは“自分の植えた木”がひ孫世代以降のお家に梁や柱となって使ってもらえることで、家族を守れる強さになったり、記憶よりもカタチに残ったりする。この世から去る寂しさ緩和のため。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。心を込めて植えたそれが…すぐに枯れたとしても、それを現実に受け止めて、リアルに何かあった時でも心の強さに変えたりする新しい考え方を知ることの心の訓練にもなる。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それはこの飽き飽きした都会のショッピングだけの時代に、お金がなくても新しいデートコースとしてその自分の樹がある山を選ぶ選択肢も増える。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それは A I に単純労働を取って代わられる時代にも、絶対に譲れない「心が必要な新しい人の仕事」としての市場ができる。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それは経済成長からの負の遺産的に手入れが止まってしまっている杉だらけの山の割合を自然なバランスに戻すことで、(少しの協力金を小花粉杉の資金にして)花粉症を減らし、本来飲まなくてもいいはずの薬は減らす。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それは動物が好きな人なら解るだろう木の実は野生動物の餌の為にもなり、里山整備の関心にも繋がるだろう。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。その興味は知識、そして経験、経験は関心、経験と関心は定年後の「地域で感動を与える活動」に積極的に参加する意欲を受け取れる。街角の落ち葉掃除も、子供たちの世話と同じだろう。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それは…環境教育の話のきっかけになったり、見た目が杉だらけの山の改善を進めて、色とりどりの美しい山の対面に駐車場公園施設などを作り、春は桜、秋は紅葉などのバランスの良い四季を楽しめる日本の観光資源の一つにもなったりする。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それは、そのバランス良く植えられた色々な木々が栄える山を見て、国も色々な人が居て成り立っているということを実感してもらいたい。皆んな同じ杉ばかりでは、ある意味統一されてて綺麗だが…実にツマラナイものだ。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。あなたがオカルト的に「私には守護霊がいる」と目に見えないものまで信じれるのなら、現実的に守護樹があってもいいと思う。(信じない人にとっては“守護”でなくても何でもいいのだが..「自分の好きな木」だね、例えば俺は夏の青々とした太陽に透かされたモミジが好きだ。木を選ぶにあたってはそんなことでもいい。)
…言い出せばきりがない程に未来に向けて「一人一本“自分の木”を植える」その意味と価値をどんどん説明できる。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それは植え始めることで、まだまだこれからもたくさんの意味が“そこ”にもたらされることになるだろう。
何故なら年間を通して行われるイベントや、毎年恒例の年中行事というのは俺たち人類の歴史から見ると、歴史などは浅いものばかり。
誰かがつい何百年前にやり始めたことなだけ。
「ミンナがやっているから」
「親がやっていたから・くれたから」
「本当の意味はよくわからないけど一応..」
などでは、
それに飽きてきたり、意味も納得できなかったり、やる意味もわからなければ、やらされてる感が残り、面倒臭いこととも感じてきたり、それが元でどんどん疎かになり、廃れたり、やらなくなるのは自然といえば自然なこと。
だが今の皆さんは、心を込めていくどころか、どんどん心を無くしていくだけ。
そんな君らの口から出る言葉に読み仮名をふると、
だからしない
だからできない
だからしなくていい
そして…「だからそれは自分のせいじゃない」と。
なあ?
まぁそれはそれでもいいのだが、僕らの世代で無くした分、小さくした分、ラクになった分、ツマラナクなった分、簡略化した分、渇いていく心の為に何か「意味のある良いこと」を子供達の未来のためにも新しく考えてスタートしてあげてみないかい?
カタチだけになり、一つ一つの行動や作業、言動に込める心をどんどん無くした分、この先の明るい未来にに必要なら新しく作ればいい。
これからの僕らには「これが必要だ」と思う人が“必要な動き”を考えて、その考えに沿った心で行動すれば、押し付けなくてもきっと大きな流れになるはず。
ですが、この先、「一人一本“自分の木”を植える」というこれだけは「絶対にやりたい人だけ」がやるということにしようと。そして(障がい者さんのように)やりたくてもやれない人には必ず手を貸してあげること。但しこれも手を貸してあげたい人のみだ。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それは善き人間の習慣のために。
本人達がやらされたものや、やる意味の分からないものには心を込められず…そのままではこの先どこかで廃れていくもの。
押し付けられることを嫌う時代に、僕は今回、「考えだけ」を広告していくことにする。
これだけ書いてもやる意味が感じられなければやらなくても良い。
もっと面白いことを言おう、
こんな僕も未だ植樹をしたことがない。(これを書いた時点ではね)
あはは、そういう意味ではとても説得力がないだろう?
こんな説得力の無い人に偉そうに言われてムカつくかい?
確かに植樹をしていない俺の存在に説得力はない。
でもどうだろう、俺はここまで書けるし、君らは説得力のない僕のコレを読んでみて何とも思わないかい? 心に変化は無いかい?
ついでに言うと君らが言い訳に使う「それじゃあ説得力が無い」というのも、一度自らの心で考え直した方がいい。
誰の言葉だろうと、「良いと思うこと」は心に取り入れた者が勝ち、そして実行・実現していけば “勝ち分けられる強さ”に変わる。
さてと、
僕は「一人一本の樹を植える」ことに対し
意味も分からず、意味も伝えず、子供を一緒に連れて行って“先ずは自分がやって見せる”などという行為などもしないつもりだ。
たとえ自分の子供でもね。
植樹に関しては変な厳しさになるのかもしれないが、それは目的があるからだ。僕は植樹を通して、その教え方次第では何か他にも大切なものを教えてあげられる気がするんだ。
いいかい?
「なぜ木を植えるのか」を子供に説明して、、ただただ話すだけ。
子供が「僕も植えに行きたい!」って気持ちになってから。そこから更に自分でお年玉を貯めさせて、植えにいくそれまでに、木々の種類や働きも教えて、自分で“その木”を選べるようになったのなら、自分で育てさせ、僕はその場所に連れていくだけ。手配したその土地にあくまでも連れて行くだけ。
その時、もし自分で穴すら掘れなければ、その日は連れて帰り、また一年後にチャレンジさせてあげるだけさ。
たとえ上手に植えられなくて、そこで枯れてしまってもね。
このやり方で、この2020年からは進めていく。
個人の心の中にあるものを信じて。
まだまだこれを人間が自然にできるようになるまでには千年かかるのかもしれないが、植物の種に水をやるように、個人の心に言葉で種を蒔く。
あとは本人がその考えを実行できる実力と心の強さがあるかないかだ!
このやり方すら新しくて、このやり方なら僕は僕の考えた行動を君に強引に押し付けることはないだろう? ミンナにとって僕は説得力がないからね..あはは。
それで廃れていくなら、廃れていけばいいさ。ただ意味を理解し、やれる人だけで楽しんでやれば良い。別に僕とは違う考え方で植樹してもらってももちろん構わない。自由だからね。
だから僕は たとえ国や企業が似たようなことをやってくれていたとしても、僕は僕で僕の樹を最低限一本は地球上に植えてから自然に還るつもりだ。
もしたとえ、一生食べていけるだけの金があったとしても、人のための仕事はするし、僕は僕の人生の責任も楽しみながら果たす。
これからは色々と大変だった労働的仕事が良い意味で少なくなるが、最後は人の手でやるべき仕事で締め括らなければいけない「金の動き」がある。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それはその国の…国債にとって…
さてと。
この第4弾までくると、とても偉そうなクソジジイのお説教のようですが、、僕はいつか皆さんが「どんな想いを込めて樹を植えたのか」を、お互いのそれについてを話してみたいなって思います。
スポーツや勉強、それぞれの趣味や学校にしても国民全員バラバラで、
オリジナリティを込められる共通の話題ってのが少ないですからね。
また、相手が「その歳のその頃にどれくらいのことを考えていたのか」もね。
そして今にどれくらい成長できているのかも。
長文がどんどん苦手になっていく“ミンナ”って方にはキツイ文章になりますが、これでもまだまだ全然足りなく簡単に書いてあります、一般的な人の生活の中で「植樹」について考えてもらいたいと望むのはこんな感じです。
気持ちと心を込めて書いてはありますが、あなたにとってキツく読みづらいものになっていましたらすみません。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。