たとえば和室の床の間の床柱に「おじいちゃんの木」が使われていたなら、僕は入学や卒業、合格の報告などもそっと手をあてて感謝することができる。
この時代には仏壇を置く家も少なくなっていますし、家を建てず賃貸マンションで暮らす方も増えてます。
ですが、木ならどんな形にも加工できて、必ず日常生活の中に残せます。
柱にならずとも大工さんなら家の一部に上手に組み込んでくれます、その他、育ち具合によっては、
机、椅子、棚、家具、玄関ポーチ、神棚、表札、木箱 ..杖やペン、おもちゃなどにも。
もちろん形見としても、御守としても“持つ者の好きな形”にできます。
個人植樹で植えた木は、あなたが生きてる間は、あなたの呼吸する酸素をまかない、亡きあとはお孫さん一家が日常で使う何かに加工してもらい、あなたに代わってそばで力にならせてもくれます。
(代々処分に困らないように「柱などで使う場合はその家のみ」などと伝えておいてあげてくだい)
遺す財産は「お金という数字や不動産や形見」もいいですが、本当は「“二者間の思い出を感じられるもの”」が理想的で、そんなものが1つくらいあってもいいと思います。(財産は親から子なので、特におじいちゃんからお孫さんに直接遺せるものとして)
これからのグローバルな時代には、子供の能力次第では先祖代々の土地を遠く離れていくこともあります。
遺した土地が悩みや重荷になってしまってうこともありますが、財産としては何かしらの答えを出さなくてはいけません。
その時お金や不動産は必ずしもお孫さんの手にそのまま残るものとは限らないのです。
もちろんそれらと比べれば植樹した木の価値は小さなものかもしれません。
でも、祖父や祖母との思い出が詰まったものなら、勇気をもらえます。
あなたが子や孫に遺すものの中では、形見にしても使い勝手の良い喜んでもらえるものとは限らないし、情勢や状況で価値の変わってしまうお金や不動産よりは、あなた自身の個性や気持ちなどが込められたもので、かつそれを感じられるものは、「あなたが植えて、あなたの二酸化炭素で共に成長して生きていた証の木」のほうがオモシロイし、人間らしい。
なぜなら、その樹の生長をお孫さんと見に行き一緒に楽しんで将来を語り、思い出をつくればより深いものになるからです。
植樹自体は
自分のために・自分で選び・自分の手で植える。
孫には・自分で選ばせ・自分の手で植えさせる。
一緒についていってあげて自由にお孫さんとの思い出をつめこんでください
お孫さんに樹木の大切さ、個人(としての意見)の大事さを教えてあげてください。
育った樹木は「誰かを支える木」として利用されればよいのです。
個人植樹で植えた木は、「他人からしてみればただの木」です。
自分たち以外の人にとってはそれ以上の価値などありません。
処分に困る財産ではありません。
使わなければほっといても構いませんし、邪魔なら伐っても構いません。
(ですので所有する上での権利だけはゆるく考えておいてください)
もし子や孫ができなければ、公民館などの建築にでも役立ててもらえればよく、「自分の育てた一本の木は最初から最期までしっかりと自分や世の中の誰かの為」となり、「心の少しの支えになってくれるもの」になるものとも考えています。
私たちの時代にはなかった慣習なのは分かってます。..ですが、
もし、「やってみてもよい、おもしろそうだ」とお思いいただけるなら、きっといつかお孫さんがおじいちゃんになった時、同じように「おもしろい」と思ってくれるのかもしれません。
ぜひ、お孫さんをつれて個人植樹をしてみてください。
お庭に植えればいいのです。
大きくなりすぎると思ったら十年おきに伐ってしまい、新しく植えればよいのですからね。
そのときは私共にもその様子をお写真などでお伝えいただけるとうれしいです。
土地をお持ちでない方でやってみたい方は、続きをお読みいただいた上で植木鉢から始めてみてください。樹木の成長はゆっくりですので大丈夫です。
ぼくらの時代から始める、新しい取り組みです。
ご一緒におねがいします。
やってみればきっと、オモシロイと思います。