さてと、前置きが長くなったが、本題に入るぞ。
ここでは「みんながやらないんだったら僕はやらない」っていう人に対して、全力で説明をする。
なぜならその人が「皆んなに合わせる」としても「皆んなのせいにはしない人間」に育てるのが個人植樹の目的の1つにあるからだ。
もちろん君の言うとおり「皆に合わせること」は大切だ。
そんなこと当たり前に分かった上で話してる。
俺が言ってる“大人の皆んな”ってのは、「皆とやっても、皆に合わせてやっても、皆に言われて一緒にやったとしても..他人のせいにはしない個人が集まったもの」だ。特に失敗や迷惑をかけた責任に対してのね。
だがもうすでに「最初からミンナに判断を依存し過ぎている人」ってのは、、物事の結果に対する受け止め方や処理ってのが少し心配な部分があり、本人が一度だけでもそれに気づいておいたほうが良い。
大きなお世話かもしれないが、「この人」と「この人の周り」が心配だからだ。
こういう人には「植樹」自体はどうでもいいが、「個人植樹の目的の説明」をキッチリときいてもらうだけでいいと思っている。
誰でも気づけるチャンスは平等に必要だ。
ただ、成人するまではミンナの判断の中にいるのは全然問題ないことだ。
「赤信号を皆で渡るしかなかった」としても、「ただみんなのせい」にして終わらせず、“そこに参加した自分”っていうのをしっかりと分析できるようになるためにも。
そしてその状況を次の世代に残さないように無理なく考えてもらうためにも。
あらためて、真剣に、
今までにまだ人間全員に根付いていないやり方の「新しい植樹」の話をする。
だが先に言っておく、僕が今から話すことは
「自発的にやりたくなければ絶対にやらないでほしい。」
「個人植樹」ってのは誰かのためにやるものではないんだからね。
誰かに言われたからとか、ミンナがやるからとか、やらされたからとか、やりたくないとか、やる意味がわからないというのなら、絶対にやらないでほしい。
そんな気持ちで自分の樹を植えないでほしいんだ。
僕が良いと思うことでも、君にとってどうなのかは知らないからね。
この話をキッカケにやりたい人ではない人にやらせることになると、その人の心に小さなストレスが生まれる可能性があるし、「やってみたけど..つまんなくて疲れて損しただけ」って言い回られては俺も嫌だし、あなたの周囲の人間や後輩や子供たちも後に続きたくなくなるし、樹木だって生きていて気持ちがあるならきっとイヤだろうし、お前のように「やらされた奴」は、誰かにそれを繰り返す可能性もあるし、“やらされてる”というそのストレスは知らず知らずのうちに“機嫌”や“愚痴”として現れて周りにマイナスに影響してくるはずだからね。
何でもやる意味を理解した上で、更にそれを「やりたい」って思わなければ楽しくないんだからね。(「企業がまとめてやってくれているからそれでいい」と思う人ならその企業の支援を君は進んでしているのかい?) 僕の言っているのは誰かがどこかでまとめてやってくれていれば良いという話しではないんだ。
国や企業がまとめて植樹することに金を通して強制的に参加させられているとかじゃ…「同じ」でも“違う”。
政治に参加するってのも「投票して終わり」であるはずがない。 僕の言っているのは、どうせやるなら、どうせやらされるのであれば、、やるしかないのなら、、そこに理解を深めて、やるって決めて、楽しめるものは、楽しく楽しむことで、人の心は本当の意味で大きく成長していくことができるというもの。
成長した人間は「良いと思うこと」を自発的にできるようになるもの。
そのためには、長期の計画を持って今より少し遠くを見てみたり、今より少し広い範囲で物事を考えてみたりできるようになれば、そこにある目先の選択にしても正しい選択というか、未来・将来につながる良い選択ができる。それが良い選択だと分かれば、君のやる気の種子になる。
「あそこにたどり着けるためには、今なにをすればいいか?」だよね。
そして、それをやることによって、やったとしたら「どんなことに広がっていく可能性があるのか?」も人間だから想像がふくらむ。
説明はこれくらいにして、あなたにとって見ず知らずの他人である私の頭の中に浮かんだものをなんとなく一言でズラズラ書いてみるが、スっと理解できるものと、「ん?」と思うものがあるだろう。特に学校では教わらないことばかりが答えになってるからね。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それは僕たち人類が個の人生を楽しむ為に必要な酸素のため。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それは生まれ育った故郷の他に、もう一つ心の故郷として、地球上の土地に愛着心を増やすため。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それは時期と場所によって同じ学年ではなく、同じ心の世代が繋がり、新たに集える場所や繋がりを作れるため。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それは“自分の植えた木”がひ孫世代以降のお家に梁や柱となって使ってもらえることで、家族を守れる強さになったり、記憶よりもカタチに残ったりする。この世から去る寂しさ緩和のため。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。心を込めて植えたそれが…すぐに枯れたとしても、それを現実に受け止めて、リアルに何かあった時でも心の強さに変えたりする新しい考え方を知ることの心の訓練にもなる。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それはこの飽き飽きした都会のショッピングだけの時代に、お金がなくても新しいデートコースとしてその自分の樹がある山を選ぶ選択肢も増える。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それは A I に単純労働を取って代わられる時代にも、絶対に譲れない「心が必要な新しい人の仕事」としての市場ができる。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それは経済成長からの負の遺産的に手入れが止まってしまっている杉だらけの山の割合を自然なバランスに戻すことで、(少しの協力金を小花粉杉の資金にして)花粉症を減らし、本来飲まなくてもいいはずの薬は減らす。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それは動物が好きな人なら解るだろう木の実は野生動物の餌の為にもなり、里山整備の関心にも繋がるだろう。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。その興味は知識、そして経験、経験は関心、経験と関心は定年後の「地域で感動を与える活動」に積極的に参加する意欲を受け取れる。街角の落ち葉掃除も、子供たちの世話と同じだろう。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それは…環境教育の話のきっかけになったり、見た目が杉だらけの山の改善を進めて、色とりどりの美しい山の対面に駐車場公園施設などを作り、春は桜、秋は紅葉などのバランスの良い四季を楽しめる日本の観光資源の一つにもなったりする。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それは、そのバランス良く植えられた色々な木々が栄える山を見て、国も色々な人が居て成り立っているということを実感してもらいたい。皆んな同じ杉ばかりでは、ある意味統一されてて綺麗だが…実にツマラナイものだ。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。あなたがオカルト的に「私には守護霊がいる」と目に見えないものまで信じれるのなら、現実的に守護樹があってもいいと思う。(信じない人にとっては“守護”でなくても何でもいいのだが..「自分の好きな木」だね、例えば俺は夏の青々とした太陽に透かされたモミジが好きだ。木を選ぶにあたってはそんなことでもいい。)
「木を植えてみればわかる、台風や大雨が降った時に「自分の育て植えた木」が少し心配になるものさ、それが分かると、親が遠く離れて暮らす子供を心配になる気持ちが、(まだ親になっていなくても)少しだけ理解ができて、親子の会話もスムーズになることもある」
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。
つまり、「アンタなんかにね、親がどれだけ心配してるか分かんないわよ!」って言われた時に少しだけ分かってあげられる経験になるかもってこと。
…言い出せばきりがない程に未来に向けて「一人一本“自分の木”を植える」その意味と価値をどんどん説明できる。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それは植え始めることで、まだまだこれからもたくさんの意味が“そこ”にもたらされることになるだろう。
何故なら年間を通して行われるイベントや、毎年恒例の年中行事というのは俺たち人類の歴史から見ると、歴史などは浅いものばかり。
誰かがつい何百年前にやり始めたことなだけ。
「ミンナがやっているから」
「親がやっていたから・くれたから」
「本当の意味はよくわからないけど一応..」
などでは、
それに飽きてきたり、意味も納得できなかったり、やる意味もわからなければ、やらされてる感が残り、面倒臭いこととも感じてきたり、それが元でどんどん疎かになり、廃れたり、やらなくなるのは自然といえば自然なこと。
そんな君らの口から出る言葉に読み仮名をふると、
だからしない
だからできない
だからしなくていい
そして…「だからそれは自分のせいじゃない」と。
なあ?
まぁそれはそれでもいいのだが、僕らの世代で無くした分、小さくした分、ラクになった分、ツマラナクなった分、簡略化した分、渇いていく心の為に何か「意味のある良いこと」を子供達の未来のためにも新しく考えてスタートしてあげてみないかい?
カタチだけになり、一つ一つの行動や作業、言動に込める心をどんどん無くした分、この先の明るい未来にに必要なら新しく作ればいい。
これからの僕らには「これが必要だ」と思う人が“必要な動き”を考えて、その考えに沿った心で行動すれば、押し付けなくてもきっと大きな流れになるはず。
ですが、この先、「一人一本“自分の木”を植える」というこれだけは「絶対にやりたい人だけ」がやるということにしようと。そして(障がい者さんのように)やりたくてもやれない人には必ず手を貸してあげること。但しこれも手を貸してあげたい人のみだ。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それは善き人間の習慣のために。
本人達がやらされたものや、やる意味の分からないものには心を込められず…そのままではこの先どこかで廃れていくもの。
押し付けられることを嫌う時代に、僕は今回、「考えだけ」を広告していくことにする。
これだけ書いてもやる意味が感じられなければやらなくても良い。
もっと面白いことを言おう、
こんな僕も未だ植樹をしたことがない。(これを書いた時点ではね)
あはは、そういう意味ではとても説得力がないだろう?
こんな説得力の無い人に偉そうに言われてムカつくかい?
確かに植樹をしていない俺の存在に説得力はない。
でもどうだろう、俺はここまで書けるし、君らは説得力のない僕のコレを読んでみて何とも思わないかい? 心に変化は無いかい?
ついでに言うと君らが言い訳に使う「それじゃあ説得力が無い」というのも、一度自らの心で考え直した方がいい。
君が「やらない理由」や「やらなくていい理由」にはならないってことだ。
誰の言葉だろうと、「良いと思うこと」は心に取り入れた者が勝ち、そして実行・実現していけば “勝ち分けられる強さ”に変わる。
さてと、
僕は「一人一本の樹を植える」ことに対し
意味も分からず、意味も伝えず、子供を一緒に連れて行って“先ずは自分がやって見せる”などという行為などもしないつもりだ。
たとえ自分の子供でもね。
植樹に関しては変な厳しさになるのかもしれないが、それは目的があるからだ。僕は植樹を通して、その教え方次第では何か他にも大切なものを教えてあげられる気がするんだ。
いいかい?
「なぜ木を植えるのか」を子供に説明して、、ただただ話すだけ。
子供が「僕も植えに行きたい!」って気持ちになってから。そこから更に自分でお年玉を貯めさせて、植えにいくそれまでに、木々の種類や働きも教えて、自分で“その木”を選べるようになったのなら、自分で育てさせ、僕はその場所に連れていくだけ。手配したその土地にあくまでも連れて行くだけ。
その時、もし自分で穴すら掘れなければ、その日は連れて帰り、また一年後にチャレンジさせてあげるだけさ。
たとえ上手に植えられなくて、そこで枯れてしまってもね。
このやり方で、この2020年からは進めていく。
個人の心の中にあるものを信じて。
まだまだこれを人間が自然にできるようになるまでには千年かかるのかもしれないが、植物の種に水をやるように、個人の心に言葉で種を蒔く。
あとは本人がその考えを実行できる実力と心の強さがあるかないかだ!
このやり方すら新しくて、このやり方なら僕は僕の考えた行動を君に強引に押し付けることはないだろう? ミンナにとって僕は説得力がないからね..あはは。
それで廃れていくなら、廃れていけばいいさ。ただ意味を理解し、やれる人だけで楽しんでやれば良い。別に僕とは違う考え方で植樹してもらってももちろん構わない。自由だからね。
だから僕は たとえ国や企業が似たようなことをやってくれていたとしても、僕は僕で僕の樹を最低限一本は地球上に植えてから自然に還るつもりだ。
もしたとえ、一生食べていけるだけの金があったとしても、人のための仕事はするし、僕は僕の人生の責任も楽しみながら果たす。
これからは色々と大変だった労働的仕事が良い意味で少なくなるが、最後は人の手でやるべき仕事で締め括らなければいけない「金の動き」がある。
それが「一人一本“自分の木”を植える」ということ。それはその国の…国債にとって…
さてと。
この第4弾までくると、とても偉そうなクソジジイのお説教のようですが、、僕はいつか皆さんが「どんな想いを込めて樹を植えたのか」を、お互いのそれについてを話してみたいなって思います。
スポーツや勉強、それぞれの趣味や学校にしても国民全員バラバラで、
オリジナリティを込められる共通の話題ってのが少ないですからね。
また、相手が「その歳のその頃にどれくらいのことを考えていたのか」もね。
そして今にどれくらい成長できているのかも。
長文がどんどん苦手になっていく“ミンナ”って方にはキツイ文章になりますが、これでもまだまだ全然足りなく簡単に書いてあります、一般的な人の生活の中で「植樹」「個人」「ミンナ」「判断」「繋がり」「経験から」「共通の話題」「年中行事」「多様性」「脱炭素への個人の意識」・・・などなどについて考えてもらいたいと望むのはこんな感じです。
気持ちと心を込めて書いてはありますが、あなたにとってキツく読みづらいものになっていましたらすみません。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。